1970年代から活躍するシンガポールを代表するポップミュージシャン:Dick Lee(ディック・リー / 李炳文)。現在63歳。
彼の人種的なバックグラウンドは「プラナカン」。15世紀後半以降(日本の戦国時代ごろから)「マレー世界」に渡った中華系移民の子孫です。
彼がアジア圏で注目されるようになったのは1989年の日本デビューの頃。
しかし(あまり知られていませんが)彼は初期のキャリアー(80年代半ばごろ)から素晴らしい作品を世に送り出しています。
音楽家としては、1990年以降の輝かしい時代と比べると、その前の八十年代は不遇で、チャンスを掴むことができず、当時本職だったイベント制作の合間を縫って音楽制作をコツコツやっていたようです。
そんな時代の彼のアルバム『Return To Beauty World』。
現在、Youtubeで聞けるのは以下の3曲のみ。1985年 香港リリース。
懐かしさの中に不思議な新しさも感じさせます。個人的には、このアルバムが再販されたら即買いしたい。
2014年のインタビュー。現在の彼はシンガポール音楽界のドン的な存在です。
彼自身が自分の今までのキャリアについて語っています。
日本デビュー当時の1990年ごろは日本に住んでいたようです。
アジア圏でDick Leeの名が知られるようになったのは1989年のアルバム『マッドチャイナマン』以降。最初は日本を中心に彼の人気に火が付きました。
その『マッドチャイナマン』(1989年)から二曲。(日本のリリースでは、彼の最初のアルバム。)
「ディン・ドン・ソング」
「Wo Wo Ni Ni」
坂本九の「上を向いて歩こう」のオマージュ『SUKIYAKI』(1990年)
(彼のアルバムをプロデュースした久保田麻琴氏の奥さんだったミュージシャン:サンディーとのデュエット。)
The Boomの『真夏の奇蹟』(1993年)。Dick Leeはコーラスで参加し、南国の爽やかな風を届けてくれます。
1990年日本発売の二作目のアルバム『Asia Major』(WEA)
当時The Boomをプロデュースしていた久保田麻琴が制作。当時日本でもヒットしました。
その後、彼は香港に渡ります。
中期の傑作。香港の歌姫:林憶蓮(サンディー・ラム)をフィーチャーした『Lover’s Tears(情人的眼淚)』。
彼がアジア圏全域で注目されるようになったのは1989年の日本デビューの時代。その頃の日本の東京は、香港と並ぶアジア文化の中心地でした。
脱線しますが、先々月マレーシアのクアラルンプールで、現地の方と日本の80〜90年代カルチャーの話で盛り上がりました。彼は40代前半の中華系のお兄さんで、日本愛がすごかった。日本のドラマ、歌謡曲の大ファンで私などよりよっぽど詳しい。
しかし、そんな彼曰く、近年制作のジャパニーズ・ミュージックはほとんど聴いていないそうです。「日本のカルチャーが輝いていたのは00年代までだったね」とキッパリ。新しい音楽で聴いているのはもっぱらK-Popだそうです。。
1984年:Culture
この曲ではアカペラトラックを野心的に試み、私の声を24回重ねました。
また(当時の私はほとんどベースノートを弾くことができなかったので、シンセサイザーを使用しました。)
この歌は、政府が少々強引な方法でこの国を「Cultured(養殖された)」社会にしようとしていることに対して少し風刺したものでした。(注釈1)
この曲が収められているアルバム「Life In The Lion City」は、シンガポール人であることの熱狂的な(しかし認められない)表現でした。
残念ながら、シンガポール人はそれが1984年に何を意味するのか全く理解していませんでした!
Dick Lee
管理人 注釈1:シンガポールでは政府の批判はご法度。特にこの時代は今より厳しかったはずです。最先端のスモール・ディストピア!
1983年:Jacintha – Bad News
英国での学業からシンガポールに戻ったときに、私が制作した最初のアルバムは、このJacintha『Silence』(1983)でした。
Ja(Jacintha / 注釈2)は私のミューズで、学校にいるときに私の曲のために、彼女が自分の声を貸してくれました。
(そして、彼女もまた、自身のソロのキャリアをスタートするためにシンガポールに帰ったところだった。)
アルバムの中のこの曲(Bad News)。私のお気に入りです。
80年代シンセを用いて、想像力に富んだ(そして特徴的で複雑な)コード進行を備えた曲です。
Deck Lee
管理人 注釈 2:この曲の歌い手は若かりし頃のJacintha Abisheganaden(ジャシンタ・アビシェガナデン)。シンガポールを代表する歌手です。インド系と中華系のハーフ。一時期、Dick Leeと婚姻関係にありました。
蛇足ですが、彼女は超が付くほどのエリート。シンガポールの名門校 Raffles Institutionからアジア最難関と言われるシンガポール国立大学を経て米国ハーバード大学で学んだ才女。
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